「プロになるまでの全て!」Tさん編14

私は母の死後、四国へ行った。

切り替えたいのか、忘れたいのか、自分と向き合いたいのか、浸りたいのか、
全く目的のない旅だった。
正直、行った記憶もほとんどなく、
徳島で食べたラーメンが美味しかったとか、
そんなどうでも良い事しか覚えていない。
そもそも、なぜ四国に行ったのかさっぱりわからない。
何のために四国へ行ったんだろう・・・?

東京に戻ってきたら、また日常生活が始まった。
でも、そこに母の姿はない。
母任せだった料理も洗濯も掃除も、残された家族がやるしかない。
一生懸命、自分の日常に、家事を取り入れてみたが、本当に疲れる。
毎日、淡々とこなしていた母って、すごいなって、
いなくなってから、気付いた。

四十九日を終えて、私は旅公演に出た。
行く前に代表から「お母様の御霊を背負って、舞台を踏め」という言葉を頂いたので、
私は、その言葉を胸に、毎日舞台で演じた。

小さなお客様の前で、「死」と「別れ」を作品の中で繰り返す。
「さようなら」と言って死んでしまうウサギ役を演じながら、
なんか、これまでとは違う感じがする。
もう4年も続けている作品なのに。

その特別な感覚の根底にあるのは、母そのものだと分かった。
「さようならって明るく言って」と演出を受けて、演じてきたけど、
なぜそうするのかわからなかった。
でも、もしかしたら本当は死にたくなんかないけど、どうせ死ぬなら、誰かの役に立ちたい。
こんな風に、母は思ったんじゃないか?
だから、さようならは悲しいんじゃなくて、笑うのかもしれない・・。
ふと、よぎった。

もう一つの作品では、
すでに死んでしまったおばあちゃんが目の前に現れて、
「いやだ!一緒にいたい!」と抱きつくシーンがあった。
これは、私の中の真実で、毎回体中に熱を感じた。

なんとなく、母がいつも近くにいた気がする。
こなすのではなくて、一回一回発見がある舞台だった。
気付きがたくさんある。

にも関わらず、
私は代表への途中報告をしていなかった。

APHに戻ったのは、冬。
今年も終わろうとしていた。
春に、代表から激励の言葉を頂いたのに、
もう半年以上、連絡をしていなかった。
そんな自分に今となっては、ゾッとする。
移動中でも宿泊先でも、メールの一本は送れたはずだ。
自分勝手だった。

しかしながら、この時の自分は、大バカで、
半年以上連絡をしていなかったことを指摘されても、
なかなかピンと来なかった。
悪い事をしているってわからないのだ。
「東京に戻ったら連絡すればいいじゃないか」って思ってしまっている。
悪気があるわけでもないから、余計に質が悪い。

報連相をする。途中報告をする。
これは、一般社会での常識。
その当たり前のことが普通にできないと、
現場では致命傷になってしまう。

それにきっと代表もメンバーも、私の事を心配していたにちがいない。
私はその想いを汲み取る能力がなかった。
御礼も言うべきだったはずなのに、それすらできていなかった。

これからどんどん仕事をして、プロとして活躍していきたいなら、
自分の痛い部分に目を向けて、
バカを消して、変化を見せないといけない。
ズレてる部分を直さなくてはいけない。
未だに、ズレてる部分は沢山ある。

この時、APHのスタッフさんが私の間違った行動を、一生懸命説明してくださった。
けれど言われてることが理解できない。
バカだから。
でも、私がとんでもないことをしてしまったことは、伝わってくる。
自分のダメなところを言われて、心がヒリヒリした。

この時の私は、大バカだけど、プロになりたかったので、
指摘を頂きながら、今のままではいけないと感じた。
だから急いで、この一年どんなふうに舞台に立っていたのか、
一つ一つ全部書き出して、代表に伝えた。

思い返せば、この反省文が受理されて、APHへ戻ってから、
女優としてAPHを真剣に活用し始めた気がする。
「人」「日常」「芝居」が、母をきっかけに繋がり始めて、
真剣に生きることを味わい始めた気もする。
まだまだ奥があるけれども。
 

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