「プロになるまでの全て!」Tさん編12

褒められて嬉しかったし、乗り越えた感もあった。
芝居でこんなにも、充実したのは初めてだった。
振り返ってみても、その不良になった出来事が
私の芸事の出発点になっていると思う。

それから、APHの板の上で緊張するようになった。
自分が、芝居ができない事を自覚して
これからどうしていいかわからなくなっていた。

だから今までの経験にすぐ頼りたくなった。
その方が安心する。
というかそれしかできない。

今までの経験で
場数を踏んで慣れていき、
緊張はしない方が良いというスタンスを身につけてしまっていた私は、
この緊張が新鮮だった。
それも、これまで味わった緊張とは全く比べ物にならないほどの、緊張度合いだ。

それまで全くやってこなかった、
毎回が新しい時間で、私がそこにいるという
当たり前だけど、できてなかった事に真剣に取り組み始めた。

また、APHにはその技術があったので
準備をして取り組むようになった。
(さらに緊張をどうしたらいいのかという技術もここにあった。)

さらに通ううちに、
私は芝居のしの字もわかっていなかったんだという事がわかりはじめた。
というか、私は芝居ができてると思い込んだ勘違い野郎だったのだ。

代表が先輩方にするダメ出しの意味が、理解できなかった。
次元が違って、私はまだそこに気づけない。
ポカーンと聞きながら、頭にハテナが沢山あった。

T先輩とツインで芝居をさせて頂いた時も
私がやりたいようにやらせてもらった。
それは、私がやりやすいように合わせてもらっていたのに
その事に全く気付かないくらいの低レベル。

私の存在はまるで
生まれたての子鹿のようだった。

そして、相変わらず旅公演も継続していた。
APHの技術も使う意識はするけれど、
やはり日常に流された。

毎日毎日、同じ台詞。
いかに新鮮にするか、取り組み始めたのは良かった。
でも相手役もいるから、流されてしまうのだ。
前のやり方で安心してしまう。

そして、何ヶ月も過ぎて、
またAPHに戻ってきたら、意識も前に戻っていて、最初からやり直し。
それを繰り返していた。

せっかく良いものを頂いてるのに活かしきれない。
色んな能力が欠如していた。

巡業では、演出家やピアニストから色々言われて
受け身になりがちだった。
少しずつ、起因でいられるように意識はしていたが
まだ私には相手の要求を超える技術もなく、
やられっぱなしだった。

私には知識がなかったので、代表から薦められた勉強もした。
その時は良かった。
でも継続できなくて、適用できない。
しばらくして、勉強もしなくなってしまった。

私にとって日常はただの日常だった。
芸事と日常が切り離されていた。
普通に暮らして、好きなことやって、
APHに出会ったことで、前よりも真剣に芝居に取り組み始めたけど、
巡業に行ったら、それが適用できなかった。

舞台は好きだし巡業は楽しかった。
と同時に、いつかは離れなくてはいけないとも思っていた。

巡業は正直、実家に住んでいたからできたと思う。
当然、家の事は何もしていなかった。
やりたい事やらせてもらえて、幸せだった。
でも私は、それを当たり前のことだと思っていた。

旅公演に出ている間、
母がいつのまにか、乳がんになっていた。
抗がん剤を使ったせいで髪の毛が抜けていたそうだ。
私が帰った頃には、もう元気になっていて髪の毛も元に戻っていた。

その時は、再発しなければ問題ないと医者から言われたので、
家族全員が安心していた。
たまに母は検査で病院に通っていた。

この辺りの記憶が曖昧で、前後しているかもしれないが、
母が、乳房を切除するために入院した時が有った。
お見舞いに行ったら母は笑っていた。

母は、「ねえ、見てよ!こんなに腕が上がるようになった」
と言いながら壁を触っていた。
切除した後は腕を上にあげることが難しいらしい。
私には、弱音を絶対に吐かない母。

「ほんとだ(笑)大丈夫そうだね!」と言って、私はその場を去った。
その瞬間、涙があふれて止まらなかった。

私は、その時は何も助けられなかった。
むしろ、そこに直面すらできなかった。
そのくらい私は自分の事だけやってきた。
好きな事だけしかしてこなかった。

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