私は母の死後、四国へ行った。
切り替えたいのか、忘れたいのか、自分と向き合いたいのか、浸りたいのか、
全く目的のない旅だった。
正直、行った記憶もほとんどなく、
徳島で食べたラーメンが美味しかったとか、
そんなどうでも良い事しか覚えていない。
そもそも、なぜ四国に行ったのかさっぱりわからない。
何のために四国へ行ったんだろう・・・?
東京に戻ってきたら、また日常生活が始まった。
でも、そこに母の姿はない。
母任せだった料理も洗濯も掃除も、残された家族がやるしかない。
一生懸命、自分の日常に、家事を取り入れてみたが、本当に疲れる。
毎日、淡々とこなしていた母って、すごいなって、
いなくなってから、気付いた。
四十九日を終えて、私は旅公演に出た。
行く前に代表から「お母様の御霊を背負って、舞台を踏め」という言葉を頂いたので、
私は、その言葉を胸に、毎日舞台で演じた。
小さなお客様の前で、「死」と「別れ」を作品の中で繰り返す。
「さようなら」と言って死んでしまうウサギ役を演じながら、
なんか、これまでとは違う感じがする。
もう4年も続けている作品なのに。
その特別な感覚の根底にあるのは、母そのものだと分かった。
「さようならって明るく言って」と演出を受けて、演じてきたけど、
なぜそうするのかわからなかった。
でも、もしかしたら本当は死にたくなんかないけど、どうせ死ぬなら、誰かの役に立ちたい。
こんな風に、母は思ったんじゃないか?
だから、さようならは悲しいんじゃなくて、笑うのかもしれない・・。
ふと、よぎった。
もう一つの作品では、
すでに死んでしまったおばあちゃんが目の前に現れて、
「いやだ!一緒にいたい!」と抱きつくシーンがあった。
これは、私の中の真実で、毎回体中に熱を感じた。
なんとなく、母がいつも近くにいた気がする。
こなすのではなくて、一回一回発見がある舞台だった。
気付きがたくさんある。
にも関わらず、
私は代表への途中報告をしていなかった。
APHに戻ったのは、冬。
今年も終わろうとしていた。
春に、代表から激励の言葉を頂いたのに、
もう半年以上、連絡をしていなかった。
そんな自分に今となっては、ゾッとする。
移動中でも宿泊先でも、メールの一本は送れたはずだ。
自分勝手だった。
しかしながら、この時の自分は、大バカで、
半年以上連絡をしていなかったことを指摘されても、
なかなかピンと来なかった。
悪い事をしているってわからないのだ。
「東京に戻ったら連絡すればいいじゃないか」って思ってしまっている。
悪気があるわけでもないから、余計に質が悪い。
報連相をする。途中報告をする。
これは、一般社会での常識。
その当たり前のことが普通にできないと、
現場では致命傷になってしまう。
それにきっと代表もメンバーも、私の事を心配していたにちがいない。
私はその想いを汲み取る能力がなかった。
御礼も言うべきだったはずなのに、それすらできていなかった。
これからどんどん仕事をして、プロとして活躍していきたいなら、
自分の痛い部分に目を向けて、
バカを消して、変化を見せないといけない。
ズレてる部分を直さなくてはいけない。
未だに、ズレてる部分は沢山ある。
この時、APHのスタッフさんが私の間違った行動を、一生懸命説明してくださった。
けれど言われてることが理解できない。
バカだから。
でも、私がとんでもないことをしてしまったことは、伝わってくる。
自分のダメなところを言われて、心がヒリヒリした。
この時の私は、大バカだけど、プロになりたかったので、
指摘を頂きながら、今のままではいけないと感じた。
だから急いで、この一年どんなふうに舞台に立っていたのか、
一つ一つ全部書き出して、代表に伝えた。
思い返せば、この反省文が受理されて、APHへ戻ってから、
女優としてAPHを真剣に活用し始めた気がする。
「人」「日常」「芝居」が、母をきっかけに繋がり始めて、
真剣に生きることを味わい始めた気もする。
まだまだ奥があるけれども。