夏。
最悪な事態が起こってしまった。
父から「話がある。」と言われて、いつになく真剣な様子にびびった。
「お母さん、病院に行ってきたんだよ。余命、半年だって。」
癌が再発したらしい。
でも母の身体は、見る限りでは元気そうで、
死ぬって言われてもピンとこない。
余命なんか、嘘だ。
だって、まだこんなに元気じゃんか!
信じたくなくて、直面できなかった。
まだ旅公演が3ヶ月残ってる。
私の代わりはいない。
仕事をしよう。
そう決めて舞台に集中した。
逃げたのかもしれない。わからない。
旅公演中は、ホテルに着いたら、家族に連絡を取って様子を聞いていた。
こんな風に、家族と話すのは珍しい。
居るのが当たり前と思っているから、
普段、感謝をしてこなかったし、むしろ反抗ばかりしていた気がする。
だからか、家族と話すのが新鮮に感じる。
電話で声を聞く限り元気そうだから、安心して過ごしていた。
今の私に出来るのは、舞台に集中すること。
そう言い聞かせた。
冗談抜きで、母は死なないと思っていた。
外から見る限り元気。本当に。
死ぬ人じゃない。
いつまでたってもピンとこなかった。
でも、余命宣告をもらってから、
母は明らかに弱くなっていった。
それは精神的なものが大きかったと思う。
私が旅公演を終えて、家に戻ったころ、
母の身体が細くなっていた。
病院の帰り、一緒にお寿司を食べに行ったけど、
味がわからないと言って、イライラしていた。
他にも色んな事に、八つ当たりするようになった。
今考えると、明らかに抗がん剤のせいだ。
やっと自覚した。
母を助ける事を。(遅いぞー!)
代表にも相談をし、沢山助けて頂いた。
結構前にアドバイスを頂いていたけれど、
バカな私は、直面しきれていなかった。
けれども目の前の現実が、やっと私をその気にさせた。
まず、ある一定の温度のお風呂に入ることを勧められたので、
寝た状態のまま入れるお風呂を業者に頼んだ。
また、東日本大震災の時にも使われているアシストのやり方を教わり、
母の身体に触れた。
母が気持ち良さそうにしていたのを覚えている。
初めは、抗がん剤よりも治癒力のある正しいデータを、
家族にわかってもらう事自体が大変なんじゃないかと思っていた。
でも私の家族は、何でも受け入れてくれた。
私が直面できてなかっただけで、母は、助かるならと、
お風呂にも入ってくれたし、アシストも受けてくれた。
私がいない時は、ビワエキスを患部に当てて温めていた。
そして私はこれまで全くやってこなかった、料理をするようになった。
マジで、これは母のお手伝いをやってこなかった自分を恨む。
少しは、やれ。
最初、野菜の皮をむいて、切るだけなのにすごい時間がかかった。
そして、母のトイレ。
初めて母のお尻を拭いた。
その時、母がごめんねと言ってきたので、驚いた。
泣きそうになるのをグッとこらえて、
赤ちゃんの時は、私がやってもらったんだから、今度は、私の番だよ。
そう返した。
母は、そうよーと言わんばかりに頷いていた。
徐々に母は起き上がる事が出来なくなった。
子供のように振る舞う母を、私が、しっかりして!と叱る。
まだどっかで信じたくない。
それが態度に出ていた。
自分でできるでしょ!と突き放したりもした。
バカだな私は。
余命なんか、いらない。
癌は、治る。
2019年4月現在は、この時よりもそれがはっきりしてきている。
だから、本当のデータが世に行き渡ってほしい。
私が影響力を持ったら、正しいデータを必要としている方々に、伝えたいと思う。
その日、母は珍しく長いこと眠っていた。
父の帰宅時間にようやく目が覚めたので、
夢みてたの?と聞くと、こくっと頷く。
どんな夢かは、聞けなかった。
次の日、母は自宅のベッドで息を引き取った。
お母さん!って声に出して母の身体を揺らしながら、
なんかこれ、ドラマみたいだなって、他人事のように感じた。
代表に連絡をしたら、
深夜にも関わらず、電話で対応して下さった。
まだ、現実を受け止められなかったけど、
なんか大丈夫だと思えた。
代表が居て下さったから、私は不思議と怖くなかった。
代表、本当にありがとうございます。
全てのことは必要必然ベストなのだ。
本当は、もっと助けられたなと、思う。
色々、遅すぎた。
もっとこうすれば、ああすれば、
考え出したらきりがない。
それでも、密度の濃い修業の時間を過ごす事ができた。
本当に感謝。
お母さん、ありがとう。
そしてごめんね。